2009年08月30日

宮台「自由な新世紀・不自由なあなた」

■相談内容の分類
・人生系
・天下系(男性に多い)
・関係系(女性に多い)

■「意味」と「強度」
「まったり生きる」とは、俺は何者なのか、世界とは何なのか、なぜ生きるのか、と「意味を問う」作法の、反対をいう。これを、意味ではなく「強度」を享受する生き方、と言い換えることもできる。

「意味」と「強度」はポスト構造主義哲学の対概念。ルーツはニーチェ(良き生を生きられない輩が、自分と世界の隙間を埋め合わせるべく「意味」を求めると考え、そうした意味を求める「弱者」はキリスト教に淵源するとみなした)。

要は、料理が美味しいのは意味があるからじゃない。レシピに意味があるから美味しいとかいうヤツはアホ。踊って気持ちがいいのも同じ。

人類は長らく「強度」を生きてきた。どんな共同体にも祭りや生け贄儀式があるのはそれに関係。ところがキリスト教以降、あるいは少なくとも近代以降「意味」(目的合理)が追求されるようになる。しかし人類史的には例外。近代が成熟し、欠落の共有がなくなるがゆえに夢の共有もなくなると、未来のために現在を、社会のために自分を犠牲にする「意味追求的な生き方」は廃れ、「今ここ」を楽しむ「強度を追求する生き方」が重要になる。「意味」から「強度」へ。

ニーチェ「人間は、意味がないから良き生を生きられないのではなく、良き生を生きられないから意味にすがるのだ」

■アール・ド・ヴィーブル
=「終わり無き日常をそこそこ楽しく生きる術」
人は分かり合えないし、世界もそのままでは砂を噛むようなもの。だからパーティに耽溺し、社交のネタになる家具調度や料理や芸術に凝る。そうやって日常を演劇化・現実を虚構化して付加価値を楽しむ、そういう生活術。そして、愛にもこれがある。あたかも「愛が可能であるかのように」振る舞うというアール・ド・ヴィーブルとしての愛がありうる。(宮台でいう「モードとしての愛」「愛のモード」)

愛の可能性を素朴に信じる心は、容易に期待はずれに見舞われる。それを繰り返すうちに、「どうせ愛なんか」とロマンチシズムの裏返しのニヒリズムに陥るか、信じ続けようとして狂気に陥ってしまう。

愛は不可能。でも、可能であるかのように生きることはできるし、そうすれば、そこそこ果実は得られ、その果実さえあれば、まがりなりにも生きていくことはできる。確かにそこまでして生きる「意味がある」のかどうかは疑問だが。でも、「意味がないじゃないか」とは誰もいわない。皆がそうやって生きているという「優しい共了解」がある。だから愛は一種のゲームになる。「意味はないけど強度はある」、そんな生き方が、こうして共犯的に可能になるわけ。

だからヨーロッパ映画では、しばしば夢か現実かわからないような「関係」が主題になる。「関係」は個人の自由にならない複雑性の次元に属する。だからこそ享受に値するというわけである。ところが日本映画はもっぱら「俺にとっての世界」つまり「観念」が主題。でも、監督や主人公が世界をどう観念しているかどうかなんてどうでもいいんじゃないか。すべての観念がアーカイブに収納された成熟社会では、たかだか一人一人が抱く観念なんて、どうせ陳腐だから誰の関心も呼ばないんじゃないか。



意味を捨てて強度を獲得しようとしたら、今度は「強度を求めても得られない」という以前よりずっと大きな苦しみが襲う。
・強度をもとめても得られないという困難は、人々を意味へと動機づけるために近代の社会システムが準備したものだから、苦しい理由が自分にあると考えるのは誤り
・近代社会では「意味でなく強度に意味を認めて」追求するという逆説を引き受けるほかないが、「求める」という意味的態度が強すぎると意味的態度につきものの無意味感や期待はずれに敗北させられるから、時間稼ぎをして「訪れる」のを待つ態度が必要
・いくら待っても訪れないかもしれない。でも苦しいのは自分だから自分が死を選ぶという論理は自明じゃない。

■現象学
世界のなかに私がいる。この私を「経験的主観」という。

では「世界の中に私がいる」と思うのは誰か。私?普通はそう答える。このとき「世界の中に私がいる」という構図の全体を、「世界の中の私」という部分に帰属する操作が行われている。

世界の全体を、世界の部分である身体像に対応させる操作は、自明だろうか。確かに身体像の内側に視界の座(パースペクティブ)がある。その視界の座から「世界の中の私」が認識されているのは確かだとしても、論理的にはその座が私(経験的主観)である必然性はない。「認識しているのは(世界の中の)私だ」と思っているのが(世界の中の)私である必然性はない。ここから経験的主観と区別される「超越論的主観」(世界の外)の観念が生まれる。(後にこれは再び「世界の中」に回収されて、間主観性と呼ばれる)

システム理論も同様に考える。「私は苦しい」と思うのは誰か。私じゃないのではないか。私としての私ではなく、システムとしての私が苦しがっているのではないか。とすれば「私は苦しい」から死ぬしかないとの思いは、周到な被操作ではないか...

結論からいえば、名状しがたい強度が「訪れる」のは、@「これは私だ」と思いこむ主体が私では他者であること、ならびに、A「私だ」とされた客体は実は錯覚で、私は「よそよそしい他者」でしかないこと、を経験できたとき。

■承認の供給不足
処方箋は、@共同体の再建、A共同体所属を頼らない承認の創造

共同体の空洞化
高度成長期→地域共同体からの離脱がもたらすアノミーに対して、男に対してはカイシャが共同体化され、女性に対しては家族が共同体化され、子供に対しては学校が共同体化され、受け皿となった。よって、企業戦士のサラリーマン、家族のために生きる主婦、学校でみなから好かれる子供が生まれた。しかしこれは成熟社会の訪れとともに、用済みとなっている。

■リベラリズム
狭義「自傷や愚行を含めた自由の下での試行錯誤で得た自尊心を尊厳とみなす立場」
広義「主体を共同体へ拡張したうえで、共同体内部の抑圧や弾圧を認めない立場」

リベラリストとは、共生条件を侵害しない範囲でどんな尊厳形式をも認める者のこと。人を巻き込まない無害なものである限り、崇高な精神共同体(右翼)や温かい利害共同体(左翼)との一体化を尊厳のベースにしたい人は、勝手にすればよかろうと考える。

アマーティア・セン「リベラリズム(自由主義)の成立条件は、選択自由を増進させる社会制度を価値的に賞揚する(そうした社会制度の破壊を許容しない)こと。そうした社会制度の範囲内でなら、共同体との一体化もOK」
→リベラリズムとコミュニタリアニズムとは、論理的に両立可能。
→「二段階革命」:「共産主義革命の前に、まず市民革命を遂行せよ」→「共同体主義を価値的に主張する前に、まずリベラリズム的寛容を価値的に主張せよ」

■民主主義のアポリア
自由ないし自己決定に任せると反秩序的・反共同体的になるというのは社会科学的に処方的な謬見。むしろリベラリストは逆の可能性、すなわち自己決定による自己決定の放棄、自由な自由の放棄が一般化する可能性におびえている。

ワイマール共和国は、民主憲法に支えられた民主的手続きの中で全権委任法を可決し、ヒトラー独裁を呼び込んだ。民主制は、民主的手続きによって民主制を放棄する可能性に向け、論理的には絶えず開かれている。

民主主義のアポリアに抗して民主社会が安定するかどうかは、歴史的条件を下敷きとする「民度」に依存。危険と裏腹。


posted by pnk at 18:57| Comment(0) | 社会学 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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